小川洋子『薬指の標本』 レビュー
☆☆☆ 5点満点中
「わたしの残像の中でその肉片は、桜貝に似た形をしていて、よく熟した果肉のように柔らかい。そして冷たいサイダーの中をスローモーションで落ちてゆき、泡と一緒にいつまでも底で揺らめいている」
和文タイプ、レモネード、文鳥のおじいさん、フレアースカート。
小川洋子の手にかかると、ありふれた言葉たちが、はっとするほどみずみずしい果実に生まれ変わる。まるで魔法のように。
女はサイダーをつくる機械に、薬指を挟まれて失ってしまう。それは一瞬のことだった。肉片はサイダーの中に転がり込んだ。
女の薬指が、しゅわしゅわ弾ける冷たいサイダーのなかを、いつまでもたゆたっている。
その映像が、物語を読むあいだずっと通奏低音ように響いて、頭から離れなかった。
時が経ち、女はたまたま求人募集の貼り紙を見つけた標本室に勤めはじめ、弟子丸氏のもとで働くことになる。
顔の火傷の跡や文鳥の骨を標本にしてほしいと頼む、切実な依頼者との奇妙なやり取りが、けっして暗くも不気味にも思えなかったのは、サイダーのなかで揺らめく薬指の面影がちらついていたから。
少しずつ、足に革靴が食い込むように、女は弟子丸氏の危うい深みへとはまっていく。
初めて彼と出会ったときから、女は、ずっとそうなることを望んでいたみたいに。